3.11をおもう
3.11の日を思い出す
10年前の3月11日のあの瞬間、当時平日休みだった私は、あろうことか入浴中だった。
たしか、前夜に知人たちと遅くまで飲んでいたおかげで翌日午後までお酒が抜けず、あんな時間にシャワーを浴びていたんだった気がする。若かった………。
体を拭かずに服を着て外に飛び出して、お向かいのお宅のママと小さな娘さんも飛び出して来ていて「すごかったですね」とか「こわかったね」と、言葉を交わした。
うちにはずっとテレビがないので、ネットで何が起きたのかを知る。
恐ろしくなり、ネットを見るのをやめる。
一人暮らしだった私は、家族や友人の安否だけ確認して、続く余震に怯えながら、現実を受け入れられずに家の中に閉じこもっていたのだけど、
日が沈んだ後、コンビニに行こうと近くの大通りに出て、目を疑った。
普段あまりひとけがなく車だけが行き交うような登り坂の通りに、
その時はほとんど車がいなく、歩道を、歩く人が埋め尽くしていた。
何が何だか分からないままコンビニに向かうが、棚はほとんど空っぽ。きっとさっきまでは、いつも通りに陳列されていたのだろうけど。この数時間の間に、大勢の人が物を買い尽くしてしまったっていうこと…?
長い坂を登って来たのであろうスーツ姿の女性がコンビニに入って来たが、
ヒールで足を痛めたようで、ストッキングのまま店内を歩いていた。
よく見ると、そういう女性は、外の坂を登って行く列の中にもちらほらいた。
こわがっていないで何が起きているか知らなきゃ、と思い、帰宅してパソコンを開いた。
たしかその時、テレビ局が、ネットにもニュースの映像をほぼリアルタイムでアップしてくれていて、津波や原発についてのニュースが、映像と一緒に報道されているのを観た。
「帰宅難民」という言葉で、先ほど見た行列の意味が、ようやく分かった。
ニュースの映像があまりにも生々しく、それに私の地元は、2007年の新潟県中越沖地震の震源地近くだったこともあり、
そのことや、その当時の家族のことなども同時に思い出され、それから数日は、長い時間、部屋で泣いていた。
思い出していくと、以降の数週間、数ヶ月間のことまで、どんどん記憶が蘇る。
あの日以来「大事にしなくてはいけない」と思った沢山のものは、何であったか…。
3月11日は、せめてそういうことを考える、おもう日であるべきなのかな、と思う。
この日に行う一斉消灯
町田市・相模原市ライトダウン ~まちだ・さがみはら 絆(ばん)・創(そう)・光(こう)~
こんな事業があるらしい。
節電に関しては、本当に強く思う。
明かりは必要以上は要らないし、無駄についている電気も好きじゃない。
もともと強い光が得意じゃないということもあるけれど、
都会や田舎に関わらず、昼も夜も、眩しすぎる場所が多いと感じていた。
原発事故の影響で、当時とても節電が叫ばれていて、お店や電車や、身の回りの明るさが、以前より随分暗くされ、私にはその光加減が、丁度よかった。
このままこれが標準になっていったらいいと期待していたけれど、何年ももたずに元通りになってしまい、残念だった。
個人的には、充分に見える、防犯的に事足りる、という明るさがあればそれで良いと思うのだけど、
世の中にはあの時期が「暗すぎる」と感じていた人や企業が、多かったんだな。
逆に「これで充分」と感じた人は、どれくらいいたのだろう。
電気に限らず、水や他の資源が「無限」であると信じている人が、多いようにも思う。
無駄に電気が使われていると知る、いいチャンスだと思ったけれど、そう簡単ではないみたい。
そういうわけで、年に一度こんな風に意識できる日があることは、大切なことだと思う。
キャンドルナイト
前述のライトダウンを、彼を誘ってやってみた。
夕飯と同時に行ったので、テーブルにキャンドルを置いて食事してみたら、闇鍋みたいな感じになって少し楽しかった。
夜は、外灯が少ないので、浅草時代に比べるとかなり暗い。
庭に出てみると、向こうの山の形がくっきり黒く見えて、目が慣れてくるにつれ星もたくさん見えた。
以前は5階に住んでいたので気にならなかったけれど、家の周りには電柱や電線が、いっぱい。
現在は2階建てなので、常に視界に入ってくる。
自家発電とかオフグリッドって憧れるけど、決して簡単ではないので、
今のところは、憧れているだけ。
自然電力については以前から家族会議の議題に上がっているので、こちらは近いうちに始められたら、嬉しいな。
写真:2011年秋に「復興支援」と称して宮城県を旅行した際に行った松島。
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