なぜ、絵を描くのか?

中越沖地震をおもう

中越沖地震をおもう

2004年の10月、新潟県中越地方を震源に、大きな地震が起きた。

私の産まれ育った新潟県柏崎市は、地震の中心地だった。
上京してから数ヶ月、19歳だった私はその日、周りの人から「新潟出身だよね?ご実家大丈夫?」と言われて、地震を知った。

それまで感じたことのない気持ちで、不安でいっぱいになりながら、何度も母の携帯電話を鳴らす。

数時間後に母から、動揺を抑えているようだけれど、ちょっと拍子抜けしてしまうようなおどけ気味な口調で、無事を知らせる留守電が入っていた。

「お父さんもお母さんも動揺しているけれど、無事で元気みたい。よかった。」

私はまた、感じたことのない、泣きたいような気持ちで笑いながら、胸を撫で下ろした。

そして、それから3年後、再び大震災が故郷を襲った。
2007年7月、新潟県中越沖地震。

地元を離れた後に、大きな地震が続けて起こり、こんな時どうしたらいいのかわからない。
ニュースでは連日、地元付近の惨状が報道されていて、こわくて不安で。
でも、連絡すると両親は元気なようなので、ひとまず安心する。

しばらくは、何も変わらない東京で、行き場のないもやもやした気持ちと共に日々を過ごした。

地震からしばらく経ったある日、母から連絡があり、

「仲良くしている絵本屋さんが、建物が壊れてしまったので、元気を出させてあげたい。絵本を描いてあげて欲しい。」

ということだった。

何も出来なく、無力感でいっぱいだった私は、やっと自分に出来ることを与えてもらった気がして、嬉しかった。
そして、ストーリーを考え、切り貼りの拙い手作りで、「さがしもの」というタイトルの、絵本を作った。

当時セツに通いながらアルバイトをする合間に、確か2ヶ月ほどかけて絵本を完成させ、ようやく、絵本を渡すという目的を持って、里帰りした。

東京で暮らしていると、頭ではわかっているものの、距離のおかげでなんだかリアリティが感じられなく、父や母のいる現実世界を見ることが、こわかった。

地震が起きた瞬間、父と母は別々の場所にいたこと。

食器棚のお皿やグラスがほとんど割れてしまったこと。

父が慌てて外へ飛び出したとき、ご近所の古い住宅が崩れていく瞬間を見てしまったこと。

ショックとトラウマでつらい日々の中で、母が、ラジオから流れてくるKOKIAさんというシンガーの曲に励まされて、泣いていたこと。

すでに随分なおされた後ではあったけれど、壊れた建物や道路を見たり、当時の話をきいたりすると、痛いほど、胸が締めつけられた。

いつもと変わらない口調の電話で安心させてもらっていたけれど、本当は毎日毎日、とてもつらかったんだ。
もっと早く帰ってきていたら、一番しんどい時に、少しは両親を励ましてあげられていたかもしれない。

まだ若かった私は、そんな当たり前のようなことを、なんとなく感じてはいたのに何も行動に起こせず、そんな自分を、とても情けなく感じた。

偶然父の仕事場の裏に、井戸のあるお宅があり、それを借りて地震の翌日に、夫婦で井戸水と卓上コンロでカレーライスを沢山作り、水道が使えず困っている人たちに食べてもらった、という話を、電話できいていた。

それで、新聞やテレビやラジオの取材をたくさん受けていて、当時は大忙しのようだった。

「出来るから、当然のようにした」そうだけれど、自分たちが辛い最中に、そんな行動をとれた両親を単純に、すごい、と思った。生命力というか、底力を感じた。

もしも同じ状況に自分が置かれたら、果たして、そんなふうに気づき、行動出来るだろうか。

絵本は、絵本屋さんに渡る前に、まずふたりに読んでもらいたくて、

そして、絵本に込めた気持ちをより伝えたかったので、私が声に出して読むのを、聞いてもらうことにした。

ふたりが耳を傾けてくれている中読み進めるうちに、だんだんといろいろな感情が溢れてきてしまい、

最終的には大号泣しながらの、大変聴きにくい朗読会となった。

時が経ち、絵本屋さんは、なくなってしまったそう。

古い常識にとらわれない自由な両親は、長く住んだ地元から近年移住し、現在はもう住んでいない。

地元に帰る理由が減ってしまったけれど、海と山が近くて、水やお米や魚がおいしい、

海に夕日が沈む故郷が、懐かしい。

写真:2008年頃に、母とおそろいで携帯に付けていたさる。ブログの内容とは関係ありません。